2014年01月02日
 ■  映画「ハンナ・アーレント」

元旦には、久し振りに映画館へ行って、映画を見た。
「ハンナ・アーレント」である。(ネタバレあり)

哲学者ハンナ・アーレントについては、
ハイデッガーの愛人だったという、
ゴシップぽい話しか知らなくて、
そのハイデッガーの哲学については何も知らない。

アーレントが、
アイヒマン裁判について、文章を書いたことだけは知っていて、
この映画は、まさにその文章についての話だったので、
見に行ったのである。

まず、映画の構造に関心した。
難しい映画だが、
アーレントが煙草を吸いまくったり、
友人と恋愛話で盛り上がっていたり、
夫とのキスシーンがたくさんあったり、
高名な哲学者としてではなく、
普通の感情的な人間として描くことを徹底してやっていたと思う。

しかし、アイヒマン裁判についてのレポートを発表をした途端、
世間は、傲慢で冷徹な人間というレッテルを彼女に貼り付ける。
そのレポートが、ナチスに対するユダヤ人の思いを、踏みにじっている
(と誤解される)内容だったため、彼女は大バッシングを受けるのだ。

観客は、それまで感情的なアーレントをたくさん見てきているので、
彼女が、感情と思考を切り分けて、
深い思索の末、「凡庸なる悪」を発見することを、
スムーズに理解できるのだと思う。
つまり、この映画のテーマは、「凡庸なる悪」そのものではなく、
「感情と思考の分離」なのだと思う。

だから僕は、映画の見所である、
クライマックスの8分間のスピーチそのものではなく、
その直後の、同じハイデッガー門下の旧友との対立の配置に、感動した。
「感情と思考の分離」ができる者=アーレントと、
「感情と思考の分離」ができない者=ハンスの対立だ。

仲間や家族の死を想い、
その加害者であるアイヒマンを憎み、徹底的な断罪を求める、
ハンスこそ、我々自身であり、
そのハンスとアーレントを丁寧に対比しているからこそ、
「思考する」ということを、
この映画から我々は考えさせられるのではないだろうか?

2008年03月07日
 ■  プレストン・スタージェスの研究

公演が終わって、時間がある時にこそ、
インプットをしなきゃいけない。
今週は、プレストン・スタージェスをまとめて見てしまう。
アメリカ喜劇の古典というと、
どうしてもビリー・ワイルダーに目が行くが、
歴史的には、プレストン・スタージェスのほうが、さらに元祖。
ワイルダーの「麗しのサブリナ」が1954年公開なので、
その十年以上前がピークの監督・脚本家ということになる。

・サリヴァンの旅 Sullivan's Travels (1941)
・レディ・イヴ The Lady Eve (1941)
・パームビーチ・ストーリー The Palm Beach Story (1942)
・モーガンズ・クリークの奇跡 The Miracle of Morgan's Creek (1944)

残念ながら、DVDやビデオで見ることができたのは、この四本だけだった。
ロマンティック・コメディーだが、
ドリフ的なドタバタがテンポ良くはめ込まれてるのが、
ワイルダーとの大きな違いだろうか。
ラストも洒脱にキメるのではなく、あっという展開で強引にオチをつける。
そのオチのつけ方がものすごくて、度肝を抜かれる。

天真爛漫な女に、男が振り回されるというストーリーの骨格は、
アメリカ喜劇の基本中の基本。
ワイルダーの映画にも受け継がれている。
そして、僕が一番好きだったのは、「レディ・イヴ」。

ただ、この監督の特徴は、すごいオチのほうにあると思う。
「パームビーチ・ストーリー」「モーガンズ・クリークの奇跡」のほうが、
その特色が出ている。必見だ。

2008年01月05日
 ■  2007年、映画館で見た映画

あけましておめでとうございます。
今年は、年始からあわただしく動いてます。
まだご報告できませんが、確定次第、お知らせしていきます。さて、

「時をかける少女」@恵比寿
「時をかける少女」@恵比寿
「ダーウィンの悪夢」@渋谷
「父親たちの星条旗」@渋谷
「それでもボクはやってない」@渋谷
「硫黄島からの手紙」@新宿
「鉄コン筋クリート」@渋谷
「となり町戦争」@新宿
「墨攻」@新宿
「アルゼンチンババア」@渋谷
「スパイダーマン3」@渋谷
「ハリーポッター 不死鳥の騎士団」@六本木
「BABEL(バベル)」@下高井戸
「ボルベール(帰郷)」@渋谷
「図鑑に載ってない虫」@新宿
「ラブソングができるまで」@三軒茶屋
「ブラッドダイヤモンド」@三軒茶屋
「いのちの食べかた」@渋谷
「大統領暗殺」@新宿
「タロットカード殺人事件」@渋谷

たくさん見た気がしてたが、19本しか見てないのか。

ビデオで見るのと違って、映画館で見ると、
場所や季節やその時の気分がよみがえる。
特に、三軒茶屋の三軒茶屋シネマという、
椅子の金具が錆びていてキイキイなる汚い名画座で見た2本は、
脚本が書けなかった時に見たので、思い出深い。

渋谷のアミューズCQNの「それでもボクはやってない」は、
満席で最前列右側に座り、
大きく斜めに歪んだスクリーンで見たが、
そのおかげで横や後ろの笑っている、
他のお客の顔を覗きながら見ることができた。
もちろん、みんな大爆笑していた。

渋谷のイメージフォーラムの「いのちの食べかた」では、
隣りの席のおじさんから、若い女の子が隣りに座ってほしいから、
あんたは横に座らないで、と頼まれた。
満席で他に空いてる席がなかったため、
気まずいけど、そのおじさんの隣りに座って、見た。

渋谷のル・シネマの「タロットカード殺人事件」は、
お客が20人ぐらいしかいないのに、
ウディファン達が声を出して笑っていて、
ファンしか見に来てないのかと呆れる反面、
そういう見ず知らずのウディファンと同じ時間を共有することに、
なんとも言えぬ贅沢さを感じた。

振り返ると、必ずしも、ベストじゃない条件で見るほうが、
自分の記憶と結びつきやすいのかもしれない。

2007年02月16日
 ■  ダーウィンの悪夢 -崩壊する自立した経済圏-

僕は学生時代にドキュメンタリー制作を勉強していたので、
こういう映画も好きで、観に行きました。
1/21(日)に、渋谷のシネマライズにて、日曜最終回割引1000円。
だいぶ、時間がたってしまいましたが、
ちょっと書いときたいことがあったので。

「ダーウィンの悪夢」
監督:フーベルト・ザウパー
http://www.darwin-movie.jp/

ドキュメンタリーなので、物語はありません。
僕の友人がブログに、この映画のわかりやすい説明を書いてます。

駒崎弘樹のblogより
http://komazaki.seesaa.net/article/31214082.html

以下引用。

「ダーウィンの悪夢」を見てみて欲しい。
そこでは典型的な「途上国を襲うグローバリゼーション」が描かれる。

貧しい国。豊かになりたい。
「近代化」しよう。そのためには外貨を得よう。
これまでの自給自足的な農業をやめ、
商品価値の高い商品作物に乗り換える。
しかし作った商品作物は
「世界中で一番安いところから買える」グローバリゼーションの「恩恵」ゆえ、
買い叩かれる。
売っても売っても、経済的には豊かにならない。自分たちでつくった作物は、
高くて自分たちは買えない。飢饉があったら、食べ物があるにも関わらず、
飢える。戻ろうにも、自給自足的な農業は破壊されている。
構造は固定して、永久に回り続ける、というような。

「ダーウィンの悪夢」では、それがナイルパーチという魚であったが、
これがカカオでもダイヤモンドでも、
同じような構造がありとあらゆる途上国で浮き上がるのだ。

以下引用終わり。

要は、グローバリゼーションによって崩壊する、自立した経済圏の話です。
さらに、複雑なのは、先進国に住んでいれば、
悪意はなくとも、誰しもが加害者になりうる点で、
日本で言えば、コンビニ弁当に入ってる白身魚は、
大体、ナイルパーチだそうです。

自立した経済の循環が大事というのは、
経済を文化に置き換えても言えることなのではないかと思います。
僕は、野田地図「ロープ」のレビューで、そのことも言いたくて、
日本語という参入障壁と1億2千万の人口に支えられた、
自己完結できる市場規模で回る内輪のエンターテインメントを、
今は昔の、舞台と客席の幸福な循環という言い方をしました。

それについても、また今度、書きたいと思ってます。

2007年02月15日
 ■  父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙 -重層的戦争群像劇-

クリント・イーストウッドの硫黄島二部作は、
反戦映画ということで、野田地図「ロープ」との共通点が多かったと思います。
もちろん、映画と演劇で手法が違うので、受ける印象は違いますが。

映画を観る順序としては、公開順に、
アメリカ版、日本版と観るといいと思います。
なぜかは後述しますが、僕は、
「父親たちの星条旗」は、1/24(水)に、渋谷のシネマGAGA!で、
「硫黄島からの手紙」は、2/1(木)に、新宿の新宿ミラノ2で観ました。

「父親たちの星条旗」/「硫黄島からの手紙」
監督:クリント・イーストウッド
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

二部作は、一部と二部というよりは、表と裏で、
アメリカ版では、攻撃の対象だった顔の見えないゲリラ兵だったのが、
日本版を観ると、
なんだ、アメリカ兵と同じように、あいつらにだって顔があったんじゃないか、
同じ人間として、同じように戦争の理不尽さに巻き込まれてるんじゃないか、
そう感じられるつくりになっています。
そこら辺は、ロープの覆面の兵士の描写に似てますね。

この二作品は、戦争の描き方が重層的で、
顔のないゲリラ兵/顔のある日本人の対比だけでなく、
アメリカ版では突如ヒーローになった下級兵士の群像劇であるのに対し、
日本版では、エリート・インテリの上級兵士の群像劇だったと思います。
二宮君は下級兵士ですが、狂言回しですね。

下級兵士が主人公であるからこそ、
国家がどういう風に国民を騙し、
国民を戦争に動員していくのかがテーマだったし、
上級兵士が主人公であるからこそ、
なぜ、エリート・インテリ(栗林中将やバロン西)が、
皇軍に従事するという理不尽を受け入れるのかがテーマだったと思います。
特に、日本版は、西洋化したエリート・インテリが、
どうして、日本人として死ぬことを選ぶのか、
観客に考えさせるように構成されている気がしました。
そのことは、自由でありながら、不自由を生きる僕らに対して、
よき人生とは何かを問うてる気もしましたが、
それはまた別の時に書きたいと思います。

2007年02月03日
 ■  それでもボクはやってない -司法のシステムに振り回されるフリーター-

できるだけ混んでる時の、
他のお客さんの反応が見たくて、
公開一週目の1/24(水)に観て来ました。
映画館は水曜日だと1000円で見れる渋谷のアミューズCQN。

「それでもボクはやってない」
監督・脚本:周防正行
出演:加瀬亮
http://www.soreboku.jp/

風刺喜劇で、風刺エンターテイメントで、面白いです。
観客にとって、作品は点ですが、
作り手にとっては、作品は線です。
「それボク」を見るにあたって、
まだ見ていなかった「ファンシイダンス」を見ておいたのですが、
1989年のバブルの絶頂期に、浮かれずに世の中を眺めていた、
その冷静さは尊敬します。
しかも、ヒステリックにバブル全否定ってわけでもないし、
バランス感覚が抜群なんでしょう。

「Shall we ダンス?」では、社会風刺をあまり臭わせなかったから、
気づきにくいですが、チャップリンや伊丹十三のような資質を感じます。

彼が描くのは、いつも、人間ではなくシステムです。
システムに振り回される普通の人、
もしくは、あるシステムに振り回されるそのシステムの外部の人というのが、
一貫したモチーフではないでしょうか?
今回は、裁判・司法というシステムに振り回される普通の人が出てきたし、
その普通の人にフリーターが設定されてるのも今日的です。

「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」
という言葉が出てきますが、
裁判官が、推定無罪の原則を破るのは、
監視カメラやテレビの犯罪報道で、
不安を必要以上に体感してしまってる僕らが、
「一人の無辜(むこ)を罰するとも十人の真犯人を逃すなかれ」
もしくは、
「一人のフリーターを罰するとも十人の真犯人を逃すなかれ」
と、心の中で要求しているからかもしれません。

アメリカでは、テロ対策という大義名分の下、
「十人の無辜のイスラム系外国人を罰するとも一人の真犯人を逃すなかれ」
というところまで、いっちゃってます。
そして、それは市民が望んでいるからなのかもしれません。

何がよい社会なのか、選択するのは僕らであり、
そう思うからこそ、周防正行はこの映画を作ったのでしょう。

2007年01月18日
 ■  時をかける少女 -未来を知らずに生きることの大切さ-

恵比寿ガーデンシネマに「時をかける少女」を見に行く。
映画サービスデーなので、120席ほぼ満席。
アニメだが、客層は高め。大人が見に来てるという印象。

「時をかける少女」
監督:細田守
原作:筒井康隆
脚本:奥寺佐渡子
http://www.kadokawa.co.jp/tokikake/

素晴らしい映画だった。
アニメならではの表現もさることながら、
脚本と演出がすごくいい。

未来を知ることの素晴らしさ、メリットをあますことなく描きながら、
見終わった後、
それでも未来を知らずに生きることの大切さを感じることができる。

金曜日までなのと、半券で1000円で見れるので、もう一回観に行って、
なぜ、ここまで面白いのか、分析してこようと思う。


《1/22追記》
というわけで、19日(金)の最終日に、リピーターしてきた。
2度目だったので、5分おきに展開をメモりながら観た。
詳しい分析は内緒だけど、
よく練られてた脚本と演出だと改めて思った。

こういうタイムスリップものって、
タイムスリップした人間の行動によって未来が変わる、
「バックトゥザフューチャー」型と、
タイムスリップした人間の行動があっても未来が変わらない、
「サマータイムマシンブルース」型があって、

この「時をかける少女」は、「バックトゥザフューチャー」型をとりつつ、
「バックトゥザフューチャー」にない、
他人の痛み/不幸を、自分の痛み/不幸として感じるようになっていく、
少女の成長物語の形式をとっている。

マーティの行動によって、ビフが不幸になるという構造が、
「バックトゥザフューチャー」では、ハッピーエンドだけど、
ビフの側から見たら、アンハッピーエンドだし、
そもそも、昨日は不幸だったことが、今日には幸福であることが有り得る。
逆もまた然り。世の摂理は人知を越える。

未来を知ることができたとしても、
未来を知るがゆえの選択は、僕らの手に余る。
幸福を得ようとした選択が、最大の不幸を生むことがあるから。
少女は、何回ものタイムスリップの中で、そのことを体験し、
痛みや別れと引き換えに、
未来を知らずに生きることの大切さを知る。

そして、僕らも、その痛みや別れを追体験しながら、
未来を知らずに生きることの大切さを知る。
是非、観てほしい映画だ。

2006年12月30日
 ■  フラガール -リトルダンサーと見比べてみよう!-

今更ながら見たのは、「フラガール」。
水曜日だったので、渋谷のアミューズCQNで1000円。

「フラガール」
出演:松雪泰子 蒼井優
監督:李相日
脚本:羽原大介
http://www.hula-girl.jp/

泣きどころと笑いどころをテクニカルに刺激する、
よくできたエンターテインメント。
でもな、、、

同じく炭鉱の町を舞台にし、
同じくダンスを描いた、
イギリス映画「リトルダンサー」を思い出した。
で、TSUTAYAで借りて、見直しちゃったんだけど、
僕にとっては、「フラガール」もよくできてたけど、
「リトルダンサー」のほうが、圧倒的に素晴らしいと思った。

だって、
産業構造の変化という時代の波にさらされる炭鉱の町と人と、
それでも、踊らなくてはならない主人公の衝動の描き方が、
重厚なんだよね。
松雪泰子の、それでも踊らなくちゃならない衝動も、
蒼井優の、それでも炭鉱の町を裏切んなくちゃならない理由も、
ビリーエリオットのそれのほうが上だぜ!
是非、たくさんの人に見比べてもらいたいね。
(12/13に見た映画の感想)

2006年12月12日
 ■  麦の穂をゆらす風 -自由は銃へとすり替わる-

先週の水曜日、弁護士会館での打ち合わせの後、
役者とシネカノン有楽町で「麦の穂をゆらす風」を見た。
水曜日だったので、1000円で見れた。

「麦の穂をゆらす風」
監督:ケン・ローチ
http://www.muginoho.jp/

日本語って面白いね。
「自由」と「銃」の音が似ている。
イギリスがアイルランドに向けた、不正義の暴力=「銃」から、
正義の暴力=「銃」を撃つことで、勝ち取った「自由」。
でも、勝ち取った「自由」の中から、
「自由」を守る為の新しい暴力=「銃」が生まれ、
その「銃」がいともたやすく、血を流す。

「銃」で手にした「自由」は、
すぐに「銃」へとすり替わっちゃって、
戦争が終わらない。
野田秀樹の「カノン」も同じテーマだった。

どうして、人間は暴力でしか問題を解決できないんだろうね。
まじめでいい映画だったんだけど、
結局、映画という人間の知性なんて、
なんの力もないんじゃないかって、
この映画自体が無力なんじゃないかって、
ナナメに見てしまった。

2006年12月04日
 ■  ゆれる -オダギリジョーと香川照之を見る映画-

新宿武蔵野館にロングラン中の「ゆれる」を見に行く。

「ゆれる」
出演:オダギリジョー 香川照之
脚本・監督:西川美和
http://www.yureru.com

役者の園芸家すみれが、
オダギリジョーのベッドシーンをやたら褒めるし、
うちのおかんは、香川照之がすごくいいの!なんてはしゃいでたし、
たすくから、制作会社はテレビマンユニオンだよ、
(未来創造堂の制作会社もテレビマンユニオンなんですね)
って言われたのもあって、
とにかく、少なくない友人が薦めるので、気になっていたのだ。

ロングランというから、満員の客席を想像してたんだけど、
80席のシートが半分も埋まらないぐらいのお客さん。
でも、7月に封切られた映画が、
12月までずっとやってるんだから、立派なものだ。
映画は、演劇とは違って、客席が空いてても、
クオリティーに響かないし、のんびり見れる分お得かも。

なるほどね。
これは、オダギリジョーと香川照之の芝居を見せる映画だね。
うるさいCGやカメラワークがなく、
仕草、表情、感情、態度の豹変、
役者を信頼し、役者に頼った、役者を見るための映画。

不遜ながら、
物語のモチーフとか、キャラクターの対立の描き方とか、
ちょっとエロい演出とか、
自分が「愛撃」でやっていたことの映像的表現を見た気がした。
もちろん、「愛撃」は兄弟ではないし、裁判もないけどね。

ネタバレになるから、あまり書かないけど、
法廷劇って面白い。
せっかく、弁護士事務所の仕事をやってるんだから、
印象の次回公演は法廷劇かな?

地味ですが、いい映画でした。
まだ渋谷でも新宿でも上映中みたいなので、
興味のある方は、是非!

2004年09月21日
 ■  誰も知らない -手ざわりの死-

映画「誰も知らない」は、実際の事件を基にしたフィクションである。
というよりも、監督の是枝氏は、フィクションという形を選んだ。
なぜか?
そこを考えてみたい。

巣鴨子供置き去り事件
http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/family.htm

先週だったと思うけど、新聞各紙の社会面で、
「中絶胎児を一般ゴミに」みたいな記事を何度か目にした。
(うろ覚えだから、間違いがあれば訂正してください。)
まあ、簡単に言うと、妊娠12週以前の胎児ってのは、
法律上、人間として扱われなくて、
だから、遺体は廃棄物として処理される。
廃棄物は処理にお金がかかる。
ゆえに、胎児を細かく切り刻んで、
一般ゴミに混ぜて捨てれば安上がり、
ってことをやってた産婦人科が捕まったんです。

中絶胎児というのが、どれくらいの大きさか、
僕はわからないが、
これは人間である、というイメージが、
この病院関係者達には欠けていた、
もしくは、考えないようにしていたに違いない。

前置きが長くなったが、
僕は、死のイメージの貧困さは、
今の社会では、あまりにも当たり前で、
防ぎようがないのだと思う。誰の責任でもなくね。
僕自身、家族を看取るという経験が、未だない。

上記のリンク先の内容を読む限り、
映画「誰も知らない」が、
実際の事件と一番違うところは、
妹の死と、その物理的な処理方法の描かれ方だと思う。
映画では、妹は旅行用スーツケースに入れられ、
空港近くの土手に埋葬される。
実際には、ビニール袋に入れられ、
消臭剤とともに押入れに仕舞い込まれた後、
臭いがひどくなり、ボストンバッグに詰められ、
秩父市の公園の駐車場脇の雑木林に捨てられる。
木の葉や枝で覆われたが、埋められたわけではない。

ところが、秩父を選んだ理由が「妹に山を見せてやりたいから」なのである。
映画では「飛行機を見せたい」という台詞に変換されるが、
まったく同じ心情を表わしたものだと思う。

映画の埋葬シーンは、とてものんきに描かれている。
それがイリーガルな行為だという自覚は見えないし、
早く大人に知らせてよ的なことを、
見ている側は、思ってしまうのだが、
子供達は、自分達のルールに、自分達の死のイメージに、
忠実であり、ピュアなのだ。
少なくとも、法律的に、慣例的に、
肉親の死を処理してはいない。

「誰も知らない」は、日常生活の中での、
死のイメージが豊かな映画である。
でも、それを取り戻せとも、回復しろとも言っていない。
そういう世界が、手を伸ばしたぐらいの距離にあるよ、
誰も知らないかもしれないけどね、そんな映画だと思った。