2005年06月24日
 ■  「隣りの男」について

ハリウッド映画のロマンティックコメディーは、
一言で言えば、"Boy Meets Girl"コメディーだと思う。
男と女が出会う、
どんな男とどんな女がどう出会い、どう恋していくか、
「ローマの休日」も「恋人たちの予感」も、
ハリウッドが作ってきた恋愛映画は、大概、この構造を持っていた。
わかりやすくいえば、始まりがあって、終わりがある構造である。

今回、初めて、岩松了の作・演出による芝居を見たのだが、
見事なまでに、前述の"Boy Meets Girl"の、
始まりと終わりがない、もしくは、隠されていた。
つまり、「隣りの男は」、男と女の、
出会い(始まり)と別れ・もしくは、ハッピーエンド(終わり)を、
削除した、真ん中の物語なのである。

出会い(始まり)が削除される、ということはどういうことか。
愛の理由が見えてこない。
鈴木砂羽さん演じる"女"は、戸田昌宏さん演じる"夫"がいながら、
大森南朋さん演じる"隣りの男"と、男と女の関係になってしまう。
ところが、
なぜ、男と女の関係になってしまったのか、観客には示されず、
もう、そうなってしまった状況だけが示されて、お話は始まる。
だから、非常にわかりにくい。
なぜ、そうなってしまったのか。
"隣りの男"は、
言葉が巧みだったのか、
肉体がセクシーだったのか、
寂しい時にたまたま傍にいただけだったのか、
"女"の愛の理由が見えない、だから、座りが悪いのである。

だが、ちょっと待って、愛に理由がいるのか。
理由のある愛を描くことほど、凡庸なことはない。
愛に理由が見つかるのならば、
それは何かしらのサービスと置き換え可能である。
理由がないからこそ、愛に価値があるのではないか。
だとすれば、たとえ座りが悪くても、
この状況を受け入れるしかないのではないか。
この座りの悪さは、登場人物の手の痒みによって、表現される。
痛みではなく、痒み。
医者に行くほどではないけれど、気になってしょうがない。
対処の仕方が、現状維持というのが、
男と女の関係にだぶっていく、そこが面白い。

そもそも、真ん中の物語である。
始まりがなければ、終わりもない。
"女"と"隣りの男"の関係には発展も終幕もないのだ。
時が止まったような舞台空間に、
心地のいい"ぬめり"を感じながら、
理由を探そうとしてしまう凡庸さに、
我が身を恥じるのである。

-データ-
「隣りの男」
@本多劇場

出演者
・大森南朋
・鈴木砂羽
・戸田昌宏
・久遠さやか
・小林薫