不特定多数の人間を、ある特殊空間に集めて、
そこで何が起こるのかを描くという手法は、
古典的ではあるけれども、
僕がとても好きなタイプのドラマの描き方である。
ただ、ここで注意しなければならないのは、
ドラマにおいて、この不特定多数というのは、
実は、作り手によって任意で選ばれた不特定多数だということだ。
だから、どういう人間(役)が集まるか、その設定から、
作者のセンス、もしくは意図を感じ取ることができる。
それを踏まえて僕は、
「愛の渦」を"匿名性"というキーワードでちょっと考えてみたい。
「愛の渦」における前述の設定は、こうである。
20歳から29歳までの男女合わせて約10人が、
会員制のセックスやりまくりクラブに集まって、セックスをやりまくる。
そこでは、表面上は個人情報は問題視されない。
職業、家族構成、性格、さらには、ルックスが意味をなさない。
なぜなら、ただセックスをやりまくるためだけに来ているわけだから。
誰とでもいい、"私とあなた"であることが求められない、つまり、
描かれるのは、匿名のセックスということになる。
ところが、物語が進むと、最初は個人情報を気にしていない、
もしくは、気にしていないように見えた会員達が、
少しずつ、私が誰であり、あなたが誰であるか、ということを、
語り出していく。
本能に徹しきれず、ただセックスすることだけに徹しきれず、
匿名から脱出せずにはいられない不自由。ところが、
その語り出していく内容が非常に凡庸であるために、
彼らの匿名性がさらに強調されていく。
彼らが語りだすのは、職業であったり、家族構成であったり、
好きな体位であったり、童貞であることだったり、
でも、そんな奴いくらでもいる、
そんなことを語りだしても、匿名であることから逃れられない。
だから結局は、匿名性の沼にさらに沈んでいくように見えた。
実際、匿名性の虚しさに、後半、会員達は急速に白けていく。
匿名的であるということは、人間に実りを感じさせてくれず、
劇中の言葉を使えば、射精の後の虚しさを漂わせて、幕。
趣味の問題だが、僕はこういう物語の在り方はつまらないと思った。
つまり、開始30分で、こうなるんだろうなあというのが予想がつくから。
そして、予想がついた上で、引き込むものがなかった。
まあ、観客を引き込もうとする意図がなかっただけなのかもしれないけど。
ただ、クオリティーは高かったと思う。それを支えたのが、
もう一つの匿名性、匿名的肉体(と勝手に名付けるが)だったと思う。
この時代の肉体(身体)の在り方として、
極限まで匿名的であることを求める、という風潮が、今すごく強いと思う。
身近でいえば、上本竜平なんかが、そういう身体を求めているし、
チェルフィッチュなんか、まさに、匿名的な肉体表現、
例えば、野田秀樹や松尾スズキのような、
ある種の個性で魅せるのではなく、
極限までに、誰でもない、何者でもない、そういう肉体の在り方。
「愛の渦」で言えば、バスタオルを巻いたまま、男達が、
ゆっくりと立ち上がっていく、ゾンビのような身体の仕草には、
ゾクゾクきた。そこだけで満足しちゃうお客さんもいるだろう。
気になるのは、
会員の年齢制限を、なぜ20歳か29歳に限定したかということ。
同年代の人間しか集められなかったのか、
同年代の人間を集めることによって、匿名性を強調したかったのか、
多分、肉体の中で一番、非匿名的な部分で、年齢的性質だと思うのだ。
匿名的肉体が、その年齢的性質をどう処理するのかを、ちょっと見たい。
このお芝居をドラマチックにすることは簡単で、
選んでくる役者の一人に、三國連太郎がいれば、
日本版かつ集団版「ラストタンゴ・イン・パリ」だ。
でも、それが好きかどうかは、趣味の問題で、
匿名的肉体と特権的肉体と、この二分割はもう戻らないんだろう。
-データ-
ポツドール
vol.13「愛の渦」
@新宿THEATER/TOPS
出演者
・安藤玉恵
・米村亮太朗
・小林康浩
・仁志園泰博
・古澤裕介
・鷲尾英彰
・富田恭史(jorro)
・青木宏幸
・岩本えり
・遠藤留奈
・小倉ちひろ
・佐山和泉
