2017年09月02日
 ■  僕の「イディッシュ語」の時間

自分でも愚かだなあと思うのだけど、新しい言語を勉強し始めてしまった。その言語の名は、「イディッシュ語」。東欧やロシアを中心に住んでいた、ユダヤ人が使っていた言葉で、基礎となったのはドイツ語だが、文字はヘブライ文字を使う。きっかけは、たくさんあるのだが、その内の一つがこの画像の、イディッシュ語の詩を読みたかったからである。ちなみに、イディッシュ語は、右から左へと読んでいく。

今週、東京外国語大学が主催する、3日間のプログラム「イディッシュ語入門」を受講した。毎朝3時間20分、イディッシュ語をゼロから学んだ。そして、驚いたことに、そのたった3日間で、ヘブライ文字の活字体が読めるようになった。単語の意味はわからないけど、どういう音なのかがわかるようになったのだ。

2日目の朝、外語大のキャンパスまでの一時間の通学時間の間、前日の授業で学んだことを踏まえて、僕はこの画像の詩と、ヘブライ文字と翻字の対応表を交互に見ながら、一字ずつ音を読んでいくという練習をしてみた。すると、語尾が同じ文字=音で終わることが多いことに気づいていく。この詩で言えば、「S」や「T」や「N」や「R」といった音が、単語や文の終わりに来る。つまり、「S」や「T」や「N」や「R」がこの“言語”の音のリズムを作っていて、それが言葉の意味はわからなくても、耳に心地よく響き始めるのだった。

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語末や文末のリズムに慣れていくと、次に語中のリズムに目が行き始める。この詩の文字を見ていくと、語中に、英語の「“」二重引用符に似ている文字がたくさん出てくるのがわかると思う。これは「ey(エイ)」という音を表す記号で、この詩の一行目には、なんと、3回も「エイ」があるのだ。えいやっ!ここまで来たら、もうこっちのもの。イディッシュ語が、昔からの友人のように思えてきて、読むのがどんどん楽しくなっていった。

未知の文字を覚えるということは、想像するより難しいことではないのかもしれない。英語のアルファベットを3日間で覚えろと言われても、そんなに難しくは感じないでしょ?つまり、知らないことは難しく思える。でも、難しいと思えても、最初の一歩を踏み出してみれば、意外とサクサク進んでいくということは、人生でよくあることなのだ。

「イディッシュ語」という、日本で生きていくためには全く必要のない言語を、真剣に学びながら、僕は、人生における「教養」の意味や、学び続けることの意味を、気づけば考えていた。学べば学ぶほど、もっと知りたいと思う未知の事象は増殖していき、人の生の短さを実感する。僕は、もう、今後は「イディッシュ語」を、継続しては勉強しないと思う。今回の10時間だけが、僕の「イディッシュ語」の時間だった。でも、この詩の、ヘブライ文字の音が読めた時の感動は、きっと忘れないと思う。たとえ、1年後には、その読み方を忘れてしまい、この詩が、ただの見知らぬ文字の連なりに戻ってしまったとしても。

2017年06月28日
 ■  【ハンナとハンナ】私がオジサンになっても

もし、あなたが住んでる町に、突然、難民が押し寄せきて、
しかも、彼らは、あなたの税金で生活保護を受け始めたら、
あなたは、何を思うだろうか?

「ハンナとハンナ」という物語の、魅力の一つは、
そんな「もし」を、あなたに訴えかけてくるところにある。

1999年の夏、イギリスのマーゲートという小さな町が舞台だ。
20年近く前のイギリスの片田舎の話。
観客の想像力がそこに留まってしまったら、演出の失敗だろう。
2017年の、日本の観客が見るのに、ふさわさしい作品にするには、
どうしたらいいのだろうか。

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出演者は若い。16歳と20歳、アンダースタティーは24歳。
もう私は、はっきりと確実にオジサンに写ってしまっている。

稽古はおもしろい。若いからか、漢字が読めない。
一人が、乳母車を「にゅうぼしゃ」と読んだ時には、
私は、爆笑してしまった。別のスタッフからは、
「今は、ベビーカーだったり、バギーだもんね」という言葉が飛ぶ。
言葉は更新されていくのか、良くも悪くも。

若いからか、知識も技術もない。
けれども、だからこそ、演技に変な癖がついておらず、
こちらが言ったことを、渇いたスポンジのように、
あっという間に吸収していく。これが、若さなのか。
自分もこの年代の時には、こうだったんだろうかと思うくらい、
とてつもないスピードで成長していくのが、わかる。

この人たちと、2017年の、日本版「ハンナとハンナ」を作るのである。

『ハンナとハンナ』リーディング上演
と難民をめぐるディスカッション@2017年7月11日
http://iti-japan.or.jp/announce/4279/

2017年06月14日
 ■  “議会”の“一般質問”を聞きに来ない?

「“議会”の“一般質問”を聞きに来ない?」と市議会議員をやっている友人から誘われたのは、今年の5月の頭だったと思う。“一般質問”という言葉の意味が、私にはわからなかった。わからないけれども、その後の、「うちの議会なんて、“シャンシャン議会”だからさー」という言葉に惹かれた。“シャンシャン議会”。政治の世界には、私の知らない言葉がいっぱいある。“異論もなく、あっと言う間に終わる”議会のことを言うのだそうだ。

というわけで、先日、私は、誘われるまま、ある市の議会の一般質問を聞きに言った。市役所の建物の中に議会があり、受付で「傍聴に来ました。」と言えば、誰でも簡単に傍聴できる。名前と住所を書いて傍聴バッチをもらう。席に座ると、お目当ての友人議員の一般質問は既に始まっていた。

議員が質問して、市の役人がその質問に答えるという枠組みで進んでいく。即興ではなく、事前に質問は共有されているのだろう、どちらも原稿を朗読している。“議会はシナリオのある学芸会”とは聞いていたが、特に、市の役人の朗読が棒読みだった。これはちょっと退屈だなあと思っていた矢先、私の友人議員が原稿を読みながら、泣き出した。驚いた。

彼女が泣き出したのは、義務教育の年齢でも、学校に行かない・行けない子どもたちがいるということを訴えていたあたりだったと思う。そういえば、子どもの貧困が広がっているという話を彼女がしていたことがあったっけ。日々の議員の活動の中で、貧困家庭の実態を目の当たりしている彼女は、特別に思うことがあったのかもしれない。

一般質問中に泣いてしまうのは、議会において有効だとは、私は思わない。実際、彼女の嗚咽が響く中でも、議会は淡々と進んでいった。しかし、同時に彼女の人間としての温かさや思いやりの深さに、とても強く心を動かされた。あんなにも他人の状況に対して、感情移入をしたことがここ最近あるか?アツト?

世界中で、仲間だと思える範囲が縮小している。新しくその国に入ってくる移民や難民を仲間だとは思えなくなっている。いや、そもそも日本では、移民や難民が入って来てないのに、元からあった仲間意識が縮小している。自分が逆の立場だったら。その想像力を持てないのだとしたら、そもそも私達は人間なのだろうか。

2017年06月10日
 ■  在外研修報告「ロンドン」

私は、2015年11月から2016年9月までロンドンに留学した。イギリスの2016年と言えば、Brexitだ。6月に国民投票があり、2015年11月の時点で、EU離脱か残留かその是非についてメディアが毎日取り上げていた。そういう雰囲気の中での留学体験だった。

ロンドンでの生活はまず部屋探しから始まった。私は最初、「イギリス人」とルームシェアすることにこだわった。英語力を伸ばしたかったからだ。もちろん、その時のイギリス人のイメージは白人だった。しかし、国際都市ロンドンにはあらゆる人種が集まっていて、地下鉄に乗っても英語以外の言語がガンガン聞こえてくる。やがて、イギリス人=白人なんて思っていた自分が恥ずかしいとさえ思うようになる。そんな中、私のルームメイト、若い白人イギリス人は「俺は右翼だよ。移民は問題を起こしすぎるから、EU離脱に賛成だ。」なんてことを笑顔で言う。右傾化するイギリスを生活の中で体感することになった。

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12月、私はYellow Earthと出会う。多数派が白人と黒人のロンドン演劇界で、東アジア系の演劇人の活躍の場を増やす活動をしている劇団だ。彼らはTyphoonという東アジア系劇作家限定の戯曲コンペもやっていて、40以上の応募作から6作が選ばれ、リーディング上演される。私も自作を応募し選ばれた。出演者の中国系イギリス人の俳優とも仲良くなり、自分たちをBBCだと言っていることを知る。英国放送協会ではなくBritish Born Chinese。バナナだとも言っていた。外見は黄色でも中身は白いと。

時間は進んで、国民投票の翌日。俳優として参加していたフォーラム・シアターの発表公演がその日にあった。芝居の主題は、搾取されるウェイター(外国人労働者が就く場合が多い)。EU離脱がその日の朝決まり、客席を巻き込んだ熱い発言が飛び交ったが、私は、どこか熱くなれないままでいた。どこの国でも演劇に興味がある人はリベラルな人が多い。でも、私のルームメイトのような普通の人が右翼的だったりするのも、今のイギリスの一つの真実で、そういう普通の人に対して、自分はどのような演劇をぶつけることができるのか。苦味が残る思い出だ。

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2017年01月19日
 ■  ボアール雑感 その1

アウグスト・ボアールを勉強したくて、
友人に借りた「被抑圧者の演劇」を移動時間を使って、読み始めた。

難しい本なので、読みやすいところから読み始めようと思って、
ボアールがシェイクスピアについて書いてるエッセイから読んでいる。
で、このシェイクスピアについての分析が、おもしろい!

ボアールの分析によると、シェイクスピアは、初めて、
ブルジョア的価値観を戯曲を通して表現した劇作家らしい。たとえ、
表面的には幕切れにおいて貴族や封建制に軍配を上げているとしても。

つまり、シェイクスピアの作品は、
貴族や王を主人公としてはいるが、
ブルジョアジー的性格を持った異端の貴族が、
伝統や既成の社会秩序をひっくり返す行動をしながら、
やがて、体制に屈して死ぬ、という構造になっているということで、
シェイクスピアに詳しい人からは、既知のことなのかもしれないけど、
私には、目から鱗だった。

2016年07月10日
 ■  London日記(Birmingham編) 8ヶ月と10日目

Birminghamの児童青少年演劇祭「On The Edge」があっという間に終わってしまった。

Birminghamに行って、一番の収穫は、西安出身のLuLuに会ったことであった。いい芝居もいくつかあったが、やはり同世代の演劇人と出会うことが何より刺激になる。LuLuは、中国人だが、中国にしては珍しく、国立や省立(言い方が正しいかは不明)ではなく、私立の劇団でアシスタントをしている女性だった。

中国には、劇団がたくさんあり、大きな劇団はほとんど公立で、給料が出るためか、安定志向になり、企画力が弱くなるという話はどこかで聞いていた。彼女の劇団は、いい作品を作るために私立で、だけど、お金を集めるために、公立の劇団と組んで(共同制作して)、いわば企画を売ることをビジネスモデルにしているとのことだった。

日本の京都に憧れるという彼女は、「中国は、今、新しいものがもてはやされている、古いものがどんどん壊されている。中国の文化遺産(注・お寺などの建築様式のことだと思う。)を守っているのは、むしろ日本だ。私は、中国の伝統や昔からの文化を使った演劇を作りたい。公立の劇団にはそれを作る企画力がないから、私たちがやるのだ」と熱く語っていた。

彼女からもらったDVDには、兵馬俑を題材にした、子どものための演劇が入っていて、中国語なので、内容の全てがわかったわけではないけど、何か新しい勢いを感じる作品だった。またしても、イギリスにいて、アジアから刺激をもらってしまうのであった。

2016年06月24日
 ■  London日記 7ヶ月と24日目

I don't mind whether you chose "Brexit" or "To Remain". I don't think that all sorts of "Brexit" are wrong. It depends on what and how you can create. I mind whether you can create good "Brexit" or "bad Brexit" from now on.

However I found our democracy scary through this "Brexit" discussion. The democracy forces us to simplify complicated issues. Why are there only two choices?

There are lots of diffrent motivation to choose "Brexit" or "To Remain". But most people prefer a simplified result.

The result is just a beginning point. Don't stop thinking. Keep thinking.
What is nation? What is fairness?

6月24日。イギリスが、国民投票によって、EUを離脱することを決まったその日、(投票は23日だが、投票結果が出たのが24日。)私は、ハイドパークの隣にある、ケンジントンガーデンの中で、フォーラムシアターの公演に、パフォーマーとして参加した。まず、公演そのものよりも、EU離脱に対しての、反応を描写しておきたい。

「EU離脱」の決定は、多くのロンドナーにショックを与えている。それは、人によっては、「世界の終わり」かのように表現する人もいて、やや過剰な反応なように、私の目には、映った。

「EU残留」派にとって、「EU離脱」は、人類の「理念」を傷つけられたかのように、あるいは、「否定」されたかのように、感じられるようだ。たしかに、第二次世界大戦後、二度と戦争を起こさないように、と作られた「EU」。そして、「EU」市民なら、誰がどの国に住むのも自由、という素晴らしい「理念」に向けての「行動」は、一歩後退したと言わざるをえない。

しかし、私の知る「EU離脱」派は、「EU」の理念を、傷つけたり、「否定」したりする目的で、「EU離脱」に一票を投じたわけではなさそうだ。「EU」が、一つの国になっていくその過程において、EU議会が様々な統一ルールを決めていくのだが、そのルールの決め方や、ルールそのものに対して、「おい、それはないだろう」と思ったということなのだ。つまり、「理念」の否定ではなく、「手法」の否定なのだと、私は考えている。

私が、瑣末だが、でも、興味深く重要だと思ったルールに「チョコレートの法律」があって、EUの規格によって、カカオ(か何か)の含有量が決まっていて、イギリスのいくつかのチョコレートは、チョコレートして認められない、ということがあるらしい。それまで、食べていたあんこが、砂糖とあずきの含有量が違うので、あんことして名乗っちゃいけない。そう言われた時に、日本人のあなたならどう反応するだろうか?

もちろん、チョコレートは瑣末なほうの話だが、こうしたEUが決めた様々な「法律」やEU議会に対する「反発」、EUの「手法」に対する否定が、「EU離脱」派の言い分で、なのに、「EU残留派」は、「理念」を否定されたかのように受け取っていて、論点がずれたまま、対立してしまっている、というのが私の認識だ。

問題は、これからだと思う。私は、全ての"Brexit"(EU離脱)が悪いことだとは思わない。悪い"Brexit"もあるし、いい"Brexit"だって、きっとあると思う。大切なことは、「単純化」をしないことだ。最も危険なことは、政治家の出世に利用されることだろう。

人々は、難しい問題を複雑なまま、理解するのを拒む。また、不安を前にすると、あっという間にわかりやすい答えに手を伸ばしてしまう。「残留」か「離脱」かが問題ではなく、よく考えて投票した人がどれだけいたのか、そして、逆の立場の人たちが、何と何と何を考えて投票したのか、あるいは、どんな人たちが、あまり考えずに投票したのか、それを想像することが大事だと思う。

ということを英語で書けたり、話せたりするほど、この留学中に、私の英語力は進歩しなかった。誠に残念だ。パフォーマンスについては、また次回、書きます。